Ananda Yoga

嫌われる勇気とはヨガ|ヨガインストラクター養成エッセイ

嫌われる勇気とはヨガである

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「嫌われる勇気」とはヨガである


0.はじめに

「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない 」

アドラー心理学の解説書「嫌われる勇気」のなかで紹介されていたイギリスのことわざです。意味は、他者へ機会を与えることはできるが、それを実行するかどうかは本人次第、ということ。これは、後ほど述べますが同書のポイントでもある「課題の分離」、そしてヨガの実践において重要な「離欲(無執着)」にも通じるところがあります。

私がアナンダヨガのYTT100を受講したのは2016年9月からです。そこで初めてヨガの定義が「アーサナをすること」ではなく「心の作用をコントロールすること」ということを知りました。また、今まで意識して考えたことがなかった心の性質についても学び、本来のヨガの難しさや奥深さを感じました。その気持ちは現在も変わりません。

そして、それと同時に驚くことがありました。アナンダヨガの受講前(2016年4月頃)に読んだ「嫌われる勇気」の内容と同じところが多くあったのです。アドラー心理学が注目を集めているのは、今日の世の中を生きやすくするヒントが書かれているからです。そしてその思想はヨガの教えと似ている。つまり、ヨガの教えはヨガについて詳しくない人たちにとっても、人生を生きやすくするものなのかもしれない。

更に言うと、世の中の自己啓発書の言わんとすることも、すべてヨガの教えに行きつくのではないか。そう考えます。アドラー心理学とヨガに共通する教え・思想について、実体験も含め、以下に3点述べます。


1.世界はすべて、あなたの投影物

あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの。

「外界のすべてが、あなたの思考(想念)と心理状態に基づいている。  世界はすべて、あなた自身の投影物だ。」(インデグラル・ヨーガ)

「人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけした主観的な世界に住んでいます。」(嫌われる勇気)

どちらも「幸か不幸かということに今の自分が置かれている客観的な状況は関係ない。自分の心がどう捉えるかによって、それはどうとでも変化する。問題は、世の中がどうあるかでなく、私がどうあるかである。」ということを述べています。

私が嫌われる勇気を読んでいた時期、新卒入社した会社を辞めるかどうか悩んでいました。心身に不調が出てきて辛い。でも正社員の仕事を辞めることに沢山の不安がありました。安定した収入を失うこと、うまくいくか分からない転職活動、退職後の諸々の行政手続きの面倒臭さ、世間の目など。ですがそんなとき、同書で哲人が青年に向かって以下のように述べます。

人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。(中略) 変わることで生まれる「不安」と、変わらないことでつきまとう「不満」。きっとあなたは後者を選択されたのでしょう。

この一節を読んでハッとし、会社を辞めることを決意しましたが、同じことを後にアナンダヨガでも教わり、深く納得しました。様々な理由をつけて「今は仕事を続けるしかない」と思い込んでいましたが、世界は自分で作っているのだから、どの世界に生きるのかということも実は自分で決められるのです。

確かに当時の私は、退職することへの様々な不安と、現状に耐えることを無意識に天秤にかけ、後者を選んでいました。すべては自分の思いや勇気次第なのです。


2.課題の分離と離欲(無執着)

「見たり聞いたりした対象への切望から自由である人の克己の意識が離欲〔無執着〕である。」 (インデグラル・ヨーガ)

「およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者への課題に土足で踏み込むこと――あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること――によって引き起こされます。」 (嫌われる勇気)

まずはそれぞれの定義について述べます。上記についてヨガの教えでは、見聞きしたものへ引き寄せられる瞬間に、それが自分にとって良いものであるかどうか識別する力を持つ必要があると述べています。その識別の力によって見聞きしたものへ無条件に心が引き寄せられないことを「無執着」と定義していています。

一方アドラー心理学では、「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があると述べており、これを「課題の分離」と定義しています。冒頭に例として挙げたイギリスのことわざで言うと、馬を水辺まで連れていくことは自分の課題だけれども、水を飲むか飲まないかを決めるのは馬の課題であるとして、明確に線引きをするということです。そして、これができていないことが対人関係のトラブルの原因であるとしています。

対人関係における「課題の分離」、「無執着」とはどういう状態のことでしょうか。それは「相手へ期待しない」、「見返りを求めない」ということです。

「“期待を伴う愛”が長続きすることは、めったにない。だから、苦痛なき思いに見えるこの愛といえども、もしそれが利己に根ざしたものであれば、結局は苦に終わる。」(インデグラル・ヨーガ)

「仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当苦しいものになるでしょう。なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。 (中略)  また、他者はどれだけ自分に注目し自分のことをどう評価しているか? つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか? こうした承認欲求にとらわれている人は、他人の目を気にしているようで、実際は自分のことしか見ていません。」(嫌われる勇気)

アナンダヨガでは、心の作用について煩悩性と非煩悩性の2種類がある、と教わりました。前者は自己中心的なもので、欲望が欲望を生みキリがない。また、必ずしも満たされるとは限らない。だから最終的に「苦」につながる。対して後者は、エゴのないもの。インデグラル・ヨーガでは、「愛すること」を例に挙げ、それが見返りを求める愛ならば自分自身が苦しくなる、と述べています。

一方嫌われる勇気では「他者からの承認欲求」を自己中心的な思い、つまりヨガの教えで言うところの、煩悩性の心の作用の例に挙げています。自分の仕事についてどのように評価するのかは上司やお客様の課題であり、自分の課題ではないのに、それができていない(つまり課題の分離できていない)。そのことが「苦」につながるということです。どちらも「相手へ期待しないこと」、「見返りを求めないこと」が重要であると述べており、対人関係における「課題の分離」、「無執着」もまた同じ意味であるということが言えます。

私は煩悩性の心の作用/他者からの承認欲求をなくすことが、自分を楽にするということを実感しています。それはSNSの断捨離です。以前は頻繁にいつくものSNSをチェックしては、友人たちとやり取りをしていました。最初は友だち付き合いのひとつとして楽しんでいましたが、次第に無意識のうちにSNS上でのレスポンスやフォロワーの数で、自分の価値を判断したり、フォロワーからの共感や反応を期待したりしていました。

だから「いいね」の数が少ないと落ち込んでいました。ですがある友だちとのトラブルがきっかけで、SNSが自分を苦しめているものだと気づき、すべてのSNSを一度退会。まっさらな状態にしました。すると以前よりだいぶストレスがなくなったのです。見返り欲しさの言動は、自分を苦しめるということを実感する出来事でした。


3.人生とは連続する刹那、つまり無常である

「物事はわれわれのところへやって来たり去って行ったりするだろう、 しかしわれわれはそれとつながっているのではない。」(インデグラル・ヨーガ) 」

「人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、   連続した刹那なのです。 (中略) 過去にどんなことがあったかなど、  あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。」(嫌われる勇気)

アナンダヨガでは、「あらゆるものは変化する。つまり自分とは無常である。」だから「”悩み”はあるが”悩んでいる自分”は(次の瞬間には)いない」と学びました。このような無常観は中学生のときに「平家物語」で学んでいたのですが、当時は理解していなかったのでしょう、今になって納得しています。「嫌われる勇気」でも、上記のように無常観について書かれています。

どちらも、すべてのものは変化していくから過去や未来に意識を向けることにはあまり意味がない。だからこそ「いま、ここ」に集中するべきだ、と述べています。

このことを意識するようになり、感じたことが2つあります。第一に、普段の生活で「いま」にいないことがいかに多いかということ。例えば会社に出勤して朝一で考えるのはその日一日の仕事の段取りです。意識は終業時間までの未来に向いており、定時内に仕事を終えられるか心配しています。

そして仕事中、過去に自分がした仕事のミスが分かり、今度はその仕事をした過去まで意識が向いて後悔をしています。「いま、ここ」に集中することが重要ではあるけれど、それがいかに難しいことであるかに驚きました。

第二に、「いま、ここ」に意識が向くと、いまあるものに自然と感謝の気持ちが湧くようになりました。もしくは、今まで尊い/有難いと何となく感じていた気持ちの理由は、「すべてのものは、いましかなくていずれなくなる(無常である)から」なのかもしれないと思うようになりました。

例えば、夏にスイスに旅行し、目の前で朝焼けのマッターホルンを観る機会に恵まれました。日の出前の薄暗い空からゆっくりと太陽が昇り、数分間だけマッターホルンを赤く染め上げます。そのわずかな時間がとても尊く、自然に対してなのか、快く長期休暇をくれた会社に対してなのか…何に対してなのかその瞬間は自分でも分からないですが「有難いなぁ」と強く感じたのです。

これら2点を踏まえ、「いま、ここ」に集中することは難しい。けれど、それは幸福感を高めるものだと思います。この瞬間しか存在しないのだから、タラレバの考えがなく、あるがまま。ヨガ八支則の勧戒のひとつ、「知足」とも似ていますが、条件を付けず「いま、ここ」を生きることは幸福感につながるということだと思います。


4.おわりに

 以上、「嫌われる勇気」の中に見るヨガの教えを3点紹介しました。

アドラーの思想は、カーネギーの『人を動かす』やコヴィーの『7つの習慣』など、多くの有名な自己啓発書にも影響を与えたといわれています。つまり、世にある自己啓発書にはヨガの教えが多く含まれていると言えます。

紀元前後にパタンジャリによって体系化されたヨガですが、時間と距離を越え、異なる学問でそれと同じ教えが説かれているのです。ヨガというライフスタイルは、昔から変わらず私たちにとっての指針なのかもしれません。そして、その指針は現代社会にはとても役立つものだと思います。

今の世の中は、SNSの普及により自分と他者を比較したり、他者への共感や反応を求めたりする場面が沢山あります。それゆえに私たちの多くは、無意識に他者を気にしながら生きているからです。そういう世の中だからこそ、他者へ執着せず、「いま、ここ」に集中して自分の人生を歩んでいきたいと強く思っています。

そして、ヨガの実践者としてそのことを伝えていきたいと思っています。


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