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ヨガからみるトラウマアプローチ|ヨガインストラクター養成エッセイ

ヨガからみるトラウマアプローチ

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ヨガからみるトラウマアプローチ

1 初めに

私がこの題材に興味を持ったきっかけは、トラウマで苦しむアメリカの帰還兵たちに超越瞑想を定期的に実施したところ効果があったというニュースを見てからである。

私自身の経験から、ヨガが精神的な面を回復させるのに良い効果を及ぼすのでないかと考えていた頃であった。

記事によれば、交戦状況では、大きな感情的トラウマを受け、基本的な生存本能は過覚醒の状態になっており、そのため、日常的に誰かが彼らを殺そうとしている環境に身を置くという異常な状況に対しても、軍人たち平常時のような反応をしめすことになる。ストレスホルモンの分泌と交感神経の活性化は、心拍数や血圧を上げることにより、いわゆる闘争・逃走反応(戦うか逃げるか反応)を引き起こすのだという。

軍人が退役して帰国した後も、そのような過覚醒状態が続くことがあり、そのためピリピリと緊張していたり、イライラや不安を感じたり、過剰反応を起こしがちになる等の兆候を呈するようになる。また、そういう人は、起こり得る危険を恐れて物事に集中することが困難なため、記憶障害が続いたり、人間関係が悪化させてしまうことがあるという。

しかしながら、クリニックでの治療とは別に超越瞑想を規則的に実践した後、体験した者たちからは、イライラをあまり感じなくなり、よく眠れるようになり、人間関係も改善していると報告があるようになったという。

この記事を読んだ当時、ヨガの知識もないもほとんどない私は、瞑想とヨガを単純に結び付けており、単純にヨガをすれば、瞑想ができるようになって、精神に何やらよろしいのだろうと考えてしまった。

また世界的なアーティストであるレディー・ガガがヨガの瞑想がトラウマに効果があったという記事を読み、トラウマに苦しむ犯罪被害者へのヨガでのアプローチが出来ないかを考え始めた。 ところが実際にインストラクター講座を受講してみて、犯罪被害者へのヨガアプローチをするにあたって、大きな疑問を感じるようになった。

瞑想によるアプローチはヨガ未経験者にとって、とても技術が必要であるということである。また日本人の多くはアメリカ軍人のように普段から肉体的な訓練を行っているわけではない為、ヨガで言われている「心」へのアプローチの準備を行うための身体の準備も不十分に思われた。

学んだラージャヨガにしても、ハタヨガにしても、瞑想はとても技術的なものであるからだ。

しかしながら、私は実際にインストラクター養成講座を受講する前、ヨガについての知識がない中で、ヨガを通じて確かに心が取り戻されていくのを感じており、その当時の私は瞑想の技術もっていない手探りでの状態であった。また、ヨガについての知識を得ていく中で、確かにヨガであればトラウマに苦しむ人へのアプローチが可能だとも感じでいた。それは「心の動きを止滅」するというヨガスートラの一節と「心と体を調和させる」技術という考え方である。これらがヨガの目的であるならば、過去に苦しむ人たちにとって心をコントロールすることのできるヨガは有効な手段となりうるはずであると考えていた。


2 脳からみたトラウマ

とりあえず瞑想の本を読むなかで、呼吸を整えると大脳の奥にある「脳幹」のさらに奥にある自律神経が整い、その自律神経を制御しているのがセロトニンであるというのが分かってきた。

さらに、呼吸というの「無意識」の自律性の呼吸と「意識的」にする呼吸があり、セロトニンは「意識的」な呼吸で、特に吐くときに意識をすると活性化することが分かった。

さらに数冊本を読み、意識的に行う呼吸は脳に作用をもたらし、その作用によって心が安定していくという結果になった。

ヨガでは呼吸を扱うことで心を扱えるようになる、なぜならその二つは同じものだからということを学んでいた私は、脳と心も同じような関係にあると考えた。とするならば脳にアプローチ出来れば、心にもアプローチが可能ということになるということである。

そして、身体を使うアーサナにおいてもそれは可能ではないかと感じていた。

ちょうどその頃、出席したトラウマ関係の研修会で脳についての話を聞いた。

その人によると脳には3つ種類があるという。1つ目は「人間の脳」と言われる考察する脳、2つ目は「哺乳類の脳」と言われる感情の脳、3つ目は「爬虫類の脳」と言われている感覚の脳である。

爬虫類の脳は生きるための脳ともいわれており、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、生存に関わる生き物としての本能を司っていると言われている。トラウマを抱える出来事に出会ったとき、爬虫類脳がオンになる。オンになった時、戦う、逃げる、フリーズするなどの行動を選択する。戦う、逃げるが駄目だと分かれば、凍り付くことによって、仮死状態になることで生き延びようとする。仮死状態になることで無反応となり、動物であれば敵から死んだとみなされて生き延びることもあるかもしれないが、トラウマの場合の多くは、仮死状態になることで痛みや苦痛から逃れようとすることで起きる。

この場合は爬虫類脳から伝達される本能での生存の命令であり、コントロールすることが出来ないものであるが、この時の戦う、逃げる能力を超えた恐怖がトラウマとなる。このような体験を経験した後では爬虫類脳が日常の中で戦闘状態へとオンしやすくなったり、また機能自体に不具合が起こる。この爬虫類脳がオンになるということは生存の危機にあることであるので、緊張状態になり視野が狭くなったりするのである。

トラウマへのアプローチの方法でも、感覚を司る爬虫類脳に感覚として今この場所が案心できることを伝達していくことでもあると考えられているものもある。そのような方法の一つして、五感を通じて安全確認をし、落ち着きを与えていく。五感は外部からの刺激で起こるものなので、この方法によって自然に人や社会とのつながりを取り戻していく。

また、この三種類の脳は相互に作用しあって機能するが、脳からの命令が起きるときの力関係は平等ではなく、圧倒的に「爬虫類脳(欲)」と「動物脳(快)」が「人間脳(理性)」より強い。人間が社会的に生活を行っていくためには、本能としての「爬虫類脳」、感情としての「哺乳類脳」を「人間脳」によって制御し、三つの脳がバランスよく機能することが大切であると言われている。

欲や快ではなく、理性的に生きることが人間としての幸福であるという考え方は、私はヨガと似ていると感じており、ここで身体を使うことで「脳」の機能が回復し、「心」が回復するという流れが見えてきたのである。 現在の脳研究において、心は脳が紡ぎ出すものと捉えられており、心とは脳の内的現象でもあるという。とすると爬虫類脳が感覚を司る脳であり、その機能を五感を使って取り戻してくことがトラウマのアプローチになるというのであるならば、身体を扱うことによって心にアプローチしていくヨガでも十二分に可能だと確信した。

脳科学、脳哲学ならばアメリカだと思い、アメリカのヨガサイトを探す中で、トラウマにアプローチしているヨガの存在を知った。 今回、フリーでの実技を決める及びエッセイを書くにあたって、『トラウマをヨーガで克服する』(著者:ディヴィット・エマーソン)を参考にした。この本と出合ったのは今年の10月というやや遅い時期ではあったものの、出合たことは大きな指針と目標になった。


3 ヨガによるアプローチ

『トラウマをヨガで克服する』は、アメリカのトラウマセンターで行われているヨガによるトラウマアプローチ法である。

このエッセイでは現在主流となっているトラウマ治療に関する医療行為は省略することにする。それは今回の目的はない。しかしながら、ヨガによるトラウマアプローチには医療関係者との連携が必要であることは事実であり、ヨガによるアプローチはあくまで補助的な役割でしかないことは理解しておく必要がある。

またヨガによるトラウマアプローチを行うにあたって、エクスサイズ的なヨガは除外されることになる。器具を使ったもの、温度が快適でないもの、クライアントに苦痛を感じさせる「我慢」といったものである。それらは、トラウマを持つ人々にとって不快で苦しい経験を連想させる危険性をはらんでいるからである。

「脳からみたトラウマ」でも述べたが、トラウマ体験を持つ人々の中には、感情的苦痛と外傷記憶を抱え、苦痛から逃げることができず、その状況に屈服してしまったという経験をもっている。それは、外傷的状況にさらされなくなってから長い時間がたっても体に蓄えられており、トラウマを持つ人々は、その不快や苦痛と現在進行形で戦っており常に緊張状態にあるといえる。

また、その苦痛から逃れるため、思考・感情・身体から自己を切り離す状態を作り出すこともある。これらの人々は自分自身とつながっていないので、他者とつながることができないし、また真に現在あることの喜びや自分自身とつながる喜びを失っているのである。

「ヨーガによるアプローチは自己につながる感覚を構築するために一連の呼吸法を用いる。ヨーガの訓練をする人には、現在にとどまる力≠サして内的経験に気づいてそれを受け入れる力≠培い、自らの体との新たな関係を育成していくことになるのである。」「身体ベースのこの実践は、感情と精神の健康に、そして人間関係に、またその人がこの世界に生きていく経験に波及効果を及ぼすのである」


4 四つのアプローチ

ヨガでトラウマアプローチするにあたって四つの主要なテーマがある。「〈今この瞬間〉を経験すること」「選択すること」「有効な行動をとること」「リズムをつくること」である。 @ トラウマを持つ人々は恐怖や危険等の経験に巻き込まれた時に起こる体の自然なサバイバル・システムの結果として、今起こっていることでなくトラウマの方に向かわされることになる。

したがって、ヨガからのアプローチに入るときには、「身体的手がかり」を利用することを提案されている。地に足がついている感覚、呼吸を感じるといったことである。また〈今この瞬間〉の経験は身体的なもの、体に基づくものであって知的あるいは観念的なものでないと考える。

ここで「身体的手がかり」について考えてみる。関西医科大学心療内科学講座の論文で興味深い記事を見つけた。このチームは心療内科を受診した心身症患者と健常対象群とに分け、バイオフィードバックを行い、その結果を検討した。

バイオフィードバックとは、リアルタイムで刻々と変化する身体の状態を客観的指標でフィードバックする、そしてその時の(主観的)身体の感覚に注意を向けてもらい、その感覚とフィードバックされる情報を手がかりに、心身の状態をコントロールすることを目指す療法である。

結果として、心身症患者は健常人に比べて、精神的緊張を健常人よりも感じており、また身体的緊張感においてはメリハリが小さいことが分かった。この状態は偏った身体感覚の増幅を引き起こし、本来の身体感覚の気付きを小さくしていると考察している。

身体感覚の気づきが高まるプロセスの中で、失われていた脳の機能が改善し、伝達機能が回復すると考えられており、身体への気づきが回復すると感情の気づきにも繋がっていき、心身相関の気づきにもなっていくとしている。また観念的なもの知的なものは、それは先ほどの脳の話で言えば「人間の脳」の働きだといえる。それは感情的な脳には作用するかもしれないが、感覚の脳は動いていない。最終的な目的は人間脳によって、感覚、感情の脳を制御していくことであるが、まずは、それぞれの脳が正しく機能していくことが大切であるので、それは、感覚脳が正常な状態に戻ってからの話である。

また感覚脳は無意識の領域でもあると言われている。習慣や体験によって人間の行動が無意識に形成されるのである。まずは、無意識を意識的なレベルまで引き上げなくてはならない。それには思考よりも感覚によって届けるしかないのである。無意識的な行動が意識されたとき、それは今この瞬間の行動となるのである。


A またトラウマは「極端な暴力な経験」と「選択肢がない状況の経験である」とし、トラウマを持つ人々は「この世界で起こることは、いかなるコントロールも効かない」という無力感と恐怖によって自分の人生に主体的にかかわることをやめてしまうのである。

このような治療のプロセスには「主体感と、コントロールしている内的感覚の回復」が含まれていると本書では説く。「レイプ被害者のための護身術の講習会であれ、ヴェトナム退役兵が(回復のために)戦地を再訪するという取り組みであれ、そこにはまだ『どのようにしてトラウマ症状に立ち向かうのか』あるいは『どのようにしてエンパワーメントの感覚(本来あるべき力が充実している感覚)を増進するのかという』という選択の余地がある。

ヨーガには確かに、それらと共通する理由で有益であると思われるが、ヨーガにはそれを超えてできることがある。(中略)穏やかにはぐくむ仕方で、自らの体に中に在る″ための道を探らなくてはならない。

ほかの多くの身体的プラクティスと違ってトラウマ・センシティブ・ヨーガが提示するものは、サバイバーが『自分の体と経験に合わせて選択できるように』組み立てられ、彼らの支えとなることができ、かつそれぞれのペースで行うことができる媒体であり、優しく、寛大で、細かな思いやりを備えているのである」 トラウマに関するヨガはその人の体に関わる小さくて扱いやすい選択のプラクティスを提案し、苦痛があれば止めても良いという感覚に関して「選択できる」ことを提案する。それは権限を与え選択させるという自立性、エンパワーメントを養う事ができるのである。

選択するという行為には瞬間的になされる選択と、それまでの体験を併せて選択するという2種類がある。その時なされる選択によって脳の使われる場所は異なるが、上記で述べられている選択は後者であると考えられ、脳の仕組みでいえば、後者の場合には大脳皮質が使われているのではないかと言われている。

大脳皮質の内側には先程述べた3種類の脳がある。この時の流れは思考をつかさどる人間の脳から哺乳類脳・爬虫類脳に指令を送り、行動を決定づけていると考えられる。選択する行為が出来なかった経験がトラウマを引き起こすのであれば、このように選択する訓練を繰り返す事で、理性的な脳から原始的な脳へのアプローチをし、そことに危険や不快がないということであれば、徐々に自分の思考に対して自信を深め、自身の判断が間違いではないものとであると行けるようになることを想像する事は難しくないはずである。


B またトラウマを抱える人たちは選択肢の欠如に加えて、エネルギーのすべてが脅威からの逃走に向けられているにも関わらず、なんらかの理由で逃げることができない、無力感の経験でもある。

そのような無力感を感じてきた人たちには、ヨガの時間で「自分の為になる」という意識を持って「自分たちがより気持ちよくなるようなことをする」という機会を作り出すことも有効であるとしている。「有効な行動をというテーマには、自分がより気持ちよく安心で快適だと感じられるようにしてくれること、あるいは自分が管理しているのだということを能動的に行うという意味が含まれている」 哺乳類脳は快・不快を司るが、それは経験によって変化するとも言われている。また、この哺乳類脳が「快」を感じたとき、爬虫類脳は「安全・安心」を認識するとされている。爬虫類脳へのアプローチとして、感情の脳に働きかけることは有効だといえる。人間脳からの指令を快いものだとキャッチすることができれば、それは自然と爬虫類脳へと伝達される。

そして、人間脳からの指令を心地よくて安心できるものだと認識することができれば、爬虫類脳はオンにした戦闘状態をオフにしていくことができるのである。それは、リラックスした状態であるといえるだろう。


C 最後の「リズムをつくる」であるが、トラウマを持つ人たちにとって困難は、主として協調性の欠如と断絶にある。

協調性とは、同調すること、足並みをそろえること、リズムにのる事である。ヨガは呼吸、動作、そして共有される経験によって、他の人びととの同調を経験することができる。これは、自身の身体が自分のもとは感じられないという肉体的解離に苦しむものにも有効である。

彼らは無意識のうちに呼吸をこらえ、絶えず筋肉を緊張させているにも関わらず、その緊張感や不快感に気がつかないのである。体の生理機能と身体レベルの情動が同調しなくなっているのである。ヨガを通じて「個人内のリズム―その人自身の呼吸とリズムにあったもの」と「個人間のリズム―集団の中で他者と協調して動くことに関係するもの」、この2つのリズムを感じることで自己および他者とのつながりを取り戻していくにつれ、世界とつながり、人生における意味の感覚を再形成していくのである。

そして、リズムのもつもう一つの側面が「時間」の要素である。トラウマ患者は誘発反応やフラッシュバックによって、今はもう存在しない過去へと連れ戻され苦しんでいる。このような苦しみは時間の感覚や周囲との世界のつながりを崩壊させる。

ヨガのポーズは、始まって、しばらくの何らかの感覚を味わったり小さな変化を経験したりしながらやがて、その経験も終わり、次に移行する。物事は始まって終わるのだということをヨガは経験させ、その経験は「時間の感覚」を回復させていく。

脳の動きをみたときに、意識された呼吸やウォーキングなどのリズム運動ではセロトニンが活性化することがわかっている。無意識の呼吸や徒歩運動ではセロトニンは出てこないのである。このとき、言語する脳「人間脳」が働いているもだめだといわれている。言語化する脳の働きによって意識が散漫になって、意識的なリズムは作り出せず、セロトニンは活性化しない。

また共感する脳は脳の「前頭前野」にあるといわれており、ここは人間の脳に位置する。この部分は人間だけが発達している脳であり、思考や創造などを司る。また瞑想の本においもリズムは大切とされており、それは個人レベルの話だけでなく、人間同士が息のあった呼吸を繰り返すことで、リズムが生まれ、前頭前野が働くというデータがあるという。また、この部分はやはり言語によるコミュニケーションより非言語的なコミュニケーションによって活性化し、それによってセロトニン神経の活性化につながるとされている。このようにリズムを作ることでセロトニンが活性化し、自律神経が安定し、緊張感をほどいていくことができるのである。


今回、このテーマでエッセイを書いて感じたことは脳と心はとても似ているということである。

@の「今の瞬間を感じる」は無意識で瞬間的な心を意識化し、部外者として観察し気づきを入れるという心のコントロールの仕方である。

A「選択する」とB「有効な行動をとる」については離欲と修習である。

自分にとって不必要なものを選ばず、また執着を捨てていく、ヨガの考え方にとても似ている。私たちは、想像や不安によって恐怖を勝手に作り出し、物事に執着してしまう。真理や真実を知ることで執着を手放し、無執着となることで楽になれるのである。気づき(観察)を人間の脳にして考えてみれば、欲や快といった脳からの強い命令に対して人間脳を働かせて理性的に生きていくことであるといえる。

そして、そのような過程を経て「心の動きを止滅する」ことができ、それは最後のC「リズムをつくる」につながると感じた。

そのように考えてみたとき、ヨガは、自然と3種類の脳をコントロールすることできるし、実際に行っているのである。 また脳の働きと心を近いものと考えると、ヨガ療法など心理的な問題を抱える人に対して、ヨガによるアプローチがしやすいということも分かってきた。

心というものは五感から与えられる感覚である。そして、動的で瞬間的なのものである。そのように考えると、本当に心というのは本当に扱いにくいものである。特に良くなる方向においては、人間としての理性が本能や感情に勝り、その理性が本能や快楽よりも良いものであると感じる(もしくは信じる)必要がある。

そのような観点からみると、粗大な身体を扱っていくことで、または呼吸から扱っていくことで微細な心へと移っていく、その過程はヨガの世界だけの特別な考え方として捉えるのではなく、至極当然の事なのだと感じている。

私は心と身体が同じものであるという考えについては当初懐疑的であったが、今ではそれは本当なのかもしれないと感じ始めているし、少なくとも、ても密接なものだとも感じている。例えば心が傷ついた時、怯えが生まれる。心に怯えが生まれれば、足がすくみ、見えてくる世界も変わってくる。見える世界が変われば、心に与える印象も変化する。このような密接にかかわっているのであれば、目に見えない上に瞬間的に無意識に動いてしまう心を扱うことよりも、目に見えて意識的に動かすことのできる身体から扱っていく方がはるかに容易いのが理解できる。

またはそれは、先述したように脳の働きからも有効であるといえる。 健康な人が心の平安を求めるのと同様、トラウマを持つ人であっても心の平安を求める気持ちは変わらない。健康な人がヨガをやることで効果があるのと同様の過程を経て、トラウマ患者たちはヨガによって身体や呼吸を拠り所して、心を感じ、そして自分のコントロールできる場所へと取り戻していく。ヨガが再現可能な科学であるのであれば、その時、得られる効果は、程度に差はあれ、健康な人と変わらないはずであると私は信じているし、それは可能だと思っている。 また、その身体を扱っていく中で、観察する自分を養っていくことが大切なのだと感じている。

観察する自己を感じる事は、本来の自己=プルシャへと繋がっていく。本来の自己であり続けることは本当に難しい。それはヨガを行っていれば分かる。心は常にどこかへ行こうとするからだ。それでも、本来の自己である時間が長くなればなるほど、人は執着を捨て、恐れを失くし、未来への不安を取り除き、あるがままの自分でいることが出来る。

私は、ヨガのこの考えには、自分を認容するための準備が含まれていると感じている。精神科医ジャックラカンは鏡に映った子どもが母親を見つめる絵を使って、子供が自分の像に視覚的同一化をすることで、それまで感じていた自分の深い部分が失われてしまうと説いている。自己を認識したとき人は皮肉なことに人は本来の自分を見失ってしまい、鏡に映った自己や他人からの視線によってできる自己、その他人の期待に応えようとする自己であろうとしてしまう。

それらを少しずつ取り除き、あるがままの自分を感じ、それを取り戻したとき、人はあるがままの他人を受け入れることが出来る。あるがままの他人は自分と差のないものである。そこには不安や恐怖はない。 多くのトラウマへのアプローチが世の中にあるが、私がヨガでなければできない事があるとと感じている点は、このように身体や呼吸をコント―ロールで心の安定を感じるとともに、その動きの中に自己が存在すると感じる、もしくは発見の過程であると思っている。その自己を感じた時、その人は自己の存在を受け入れていく。なぜなら、その存在を感じ、知ったのだから。

最初は小さな発見かもしれないが、ヨガによる訓練を繰り返していくことで、その自己はやがて本来の姿へと戻っていく。その自己は、なんの肩書も持たない、なん性別も持たない、「私」である。穢れもなく、陰りもない唯一の「私」である。その存在はその後の人生において、かけがえなのない拠り所になるはずになると信じている。


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