Ananda Yoga

人生のあらゆることはヨガ|ヨガインストラクター養成エッセイ

人生のあらゆることはヨガにできる

Ananda Yoga


人生のあらゆることはヨガにすることができる。
生活も仕事も趣味も。

ヨガに出会ったきっかけは、近所のカフェでやっていたクラスにご縁があって参加したこと。

当時の私はストレスフルな生活をしていた。

終わった後はとてもリラックスできて、不思議と食欲が減少し、その日は特に何も食べなくても良い状態になれたことが印象的だった。
事情があってそのクラスは継続しなかったが、ヨガはいいものであるというのは強く残してもらえた。

元々ストレスには弱かった。

そんな私がメンタルヘルス症状により2度目の休職をした時、メンタルを損ねる原因は自分自身にあるのではないかと気づいた。
医者からの薬の処方は断り、根本的な自分自身の原因とストレスを解消したく本格的にヨガを始めることにした。

そして、アナンダヨガのインストラクター養成講座に辿り着いた。

YTT100で学んだ、心の作用の仕組みに大きな衝撃を受けた。
世の中のカラクリに気づいてしまったような感覚になった。
この世は五感による刺激であらゆる欲望が動かされ、執着が生み出されている。

美味しいもの。
良い香り。
美醜。
会話やニュース。
心地よい手触りなど、列挙にいとまがない。
経済の大半を動かしているものの正体を知った気がした。
自分自身もその刺激と様々な情報から無意識に振り回されてきたこと。
無意識ゆえに、どれだけ自分自身を見失っていたかを。

バガヴァッドギーターの一節に「亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める時、その人の智慧は確立している。」と、ある。

感官とは五感の事であり、五感の先にある快と不快に振り回されることは、自分自身を見失う原因となりうる。
わかりやすいのは「食べすぎ」だろう。

美味しいと言う快により、過剰に食べすぎたり、グルメになり高級店の外食でなければ満足できない、不要な間食が増す、などである。

過去に出会ったヨガの先生から、「舌で食事をしないように」と言われたことがあった。

さらに、「心(命)を神とするなら、体は神殿であり、神殿はキレイに整っていなければならない。」と言う記述を読んだことがある。

その時は良く理解できなかったが、現在の私なら少し分かる。

美味しさに惑わされ、臓器に負担がかかる量や美味に隠された有害な添加物などを摂取することは自傷行為なのだ。

YTT200のハタヨガノートにも「身体の臓器や器官は、食べ物やビタミンのみで成り立っているものではありません」とあるように、ハタヨガを行いプラーナの流れがよくなれば、エネルギーが満たされ、過剰な食物からのカロリーは必要無くなること、さらに心のヨガで自分自身の感覚に気づき、沸いた食欲に冷静に対応できることが、巷で「ヨガは痩せる」と言われている理由なのだと思う。

ヨガにより体型が変わるから痩せるのではなく、心や性格が変わるから痩せるのだ。

これまで、働く(動く)為にお腹も空いていない昼休憩時に無理して食事を摂っていたが、ストレスを感じる職場で摂る食事が美味しく感じられないことと、吸収のために血糖値が上がり体がダルくなったり眠くなったりすることに気づいてからは、飲み物を摂る程度で平気でいられるようになった。

人が最も影響を受けるものの一つに、「聞く」と言うものがある。

YTT100の授業でも「聞いた」と言う例が取り上げられた。

この「聞く」と言うことに、どれだけの人が混乱させられているだろうか。ニュースによる不安や怒りの煽り、口コミや噂による情報操作、それらによる凝り固まった常識など。それはメディアだけではない。家族や友人だったりする。誰かや何かからの「ねばならない」と言う価値観に囚われ、自分自身で自分のことを決めつけたりしてしまう。

私は20年間、同じ業種で転職を繰り返してきた。自分はその業種しか知らなかったし、それ以外の業種には携われないと思い込んでいた。

YTT100を修了した直後、初めて異業種に携わる事ができ、これまでとは違った充実感を味わっている。ヨガを知る前の自分は、それこそ無意識に様々な可能性を失っていたのかもしれない。

ストレスフルになりがちな仕事に対しても、ヨガは大いに役立つ。

退職の理由で最も多いものに「人間関係」がある。

同僚や先輩からの不必要な情報(愚痴や不満)に自分自身が惑わされていないだろうか?

誰かの噂話で直接接したことがない人の印象を決めてしまっていないか?

業務で失敗や損失を起こしてしまった時、聞こえてもいない批判や陰口に怯えたりしていないだろうか?

それはヨガに於ける「現在に集中すること」で回避できる。仕事と言う義務に一切の雑念を捨てて打ち込むこと。目の前の業務に意識を一点集中するのだ。

それは瞑想の定義と同じ。ただ「現在」と言う目の前の一瞬一瞬だけが現実と真実であり、それ以外の過去や未来、妄想は全て幻である。

ストレスで潰れていた頃の私は、どれほどまでに他人からの目を気にしていただろうか。
他人からの期待に応えなくてはならないと言う呪いに、どれだけ縛られていただろうか。

同じくバガヴァッドギーターに「執着と結果(果報)を捨てて行われるべきである」、さらに「望ましくない行為を厭わず、望ましい行為にも執着しない」とある。

果報(報酬や成果)を求めないこと。 果報とは欲望であり、果報を求める事は不満や執着を生む。
周りや他人を過剰に気にする事、それらは比較を生み、不満と言う悪い気を生む。

それも、目の前にある自身の義務に集中することで軽減できる。
結果を気にしない。良い結果も悪い結果も平等に受け流す。

良い悪い、好き嫌いを同等とし、欲望から離れ、良い結果に浮かれすぎる事無く、悪い結果に引きずられないこと。
これはいつでも初心に帰ることができるし、趣味や他のことにも生かすことができる。

同じことの繰り返しは、見た目が違っているだけで、深層や本質は同じものだったりする。
見失いがちな自分自身に対し常に意識的でいることで、ストレスやダメージの軽減ができるようになる。
リラックスできた状態、それこそがその人の本当の姿であると学んだ。

実際、リラックスしている時間は些細なことも気にならなくなる。
その為にハタヨガでエネルギーが滞りがちな体を動かし、自分に合った必要なものを程よく取り入れ、清潔にしておき、常に意識的でいられる状態にしておく。

エネルギーの滞りの原理は体を部屋に置き換えると、無執着と離欲の点も含め、断捨離に共通する部分が多い。
過剰な情報によって不必要なものを無意識に手に入れたくなるようにコントロールされたり、心地よくないと感じていながら中々切れない人間関係や常識の執着から自由になろうと言う考えだ。

日常生活の身近にも断捨離と言うヨガがある。

これらに共通していることは、誰かや何かからコントロールされることからの、自由と超越である。

特に何かをしていなくても、自然にそれができる人もいる。
本人はしていないつもりでも、自然とヨガが身についてできているのだと思う。
ただ、私はヨガに出会わなければ、それに気づくことができなかった。

頑張り過ぎることや心地よくない状態に耐え続けることが自傷行為であるということに、ようやく魂から理解できたという感じなのだ。
ヨガはその人個人に働きかけるものだと聞いたことがある。

ヨガを知る前の私が0だったならば、今の私は30くらいになれたような気がする。
先行き見えない転機を目の前にする度、不安や恐怖に駆られていたが、それも無くなった。
何故なら、結果の善し悪しに囚われないことは心の平穏に繋がるからである。

ヨガに触れ、学び、実践していくことは、自己啓発を始め、分かりにくかった古典や過去の偉人が残した言葉の意味が体感を伴って理解できるようになるものだと感じている。

これからヨガと共に歩む人生が楽しみで仕方がない。


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